駿河郷島和紙の沿革       

静岡の母なる川・安倍川は全長52q、一気に駿河湾に注ぐ急流河川で、日本一水のきれいな川です。その中流(河口から20q)の郷島は、永禄年間(1558〜1569)の頃より紙漉の里であった。当初は近在で使う障子紙やほいろ紙などを楮の原料で漉いていた。
文化年間(1804〜1818)には五色の半切紙(14.4p×39p)を年間60箇(1920s)も出荷していた記録がある。色は、青ー藍染め・黄ー黄 蘗染め・赤ー紅花染め・白・黒ー墨染めではなかったかと推測される。また上記の一般的五色ではなく、中間色が含まれた五色とも考えられる。


三椏の花 和紙漉き体験
左:三椏                                 右:体験風景

また郷島では江戸中期の頃より、油桐(毒荏)をたくさん府中に出荷していた。これは石油の無 い時代に、実から油を搾って燈明に使ったり、油紙を作ったりした。油紙は唐傘、提灯そして合羽などに使われた。江戸時代の駿河名産・賤機紙子のちに安倍川 紙子として、全国にその名を知られた道中合羽は、この油紙から作られた。さまざまな小紋を刷り縮緬じわを付けた紙子は、東海道を旅する人の必需品であり土 産物であった。

なお駿河の藍染め半切紙が王子紙の博物館に保存されている。また平成6年の「海を渡った江戸 の和紙 パークス・コレクション展」に駿河産色半切紙(浅黄・黄・藍・柿色)があった。これは駐日公使ハリー・スミス・パークスが明治2年に、当時のイギ リス首相の指令により、日本全国の和紙を収集したもので、原料は三椏で白色は書簡や巻紙に用いられ、上質の和紙であった。

楮 トロロアオイ
   楮                            とろろ葵

駿河和紙の最古の記録としては、平安初期の宮中の年中儀式や制度などを記した『延喜式』(延喜年間901〜922)に、紙を現物租税として納め、全国の3分の2の納税国の一つとしてあげられている。尚そこには紅花の納税の記載も見られる。