郷島和紙独語       

このページは駿河・郷島に関する和紙について、今までに調べたものを少しずつまとめてみたいと思っています。

NO1 毒荏(どくえ) 永五拾文五分 定納毒荏小物成
   『高反別明細差出帳』 安永9年(1780)郷島古文書 
   『静岡市史近世史料四』

油桐・・毒荏 油桐

油桐の花 油桐の実

「毒荏」この名前を初めて私が知ったのは、上記の郷島古文書からです。郷島の和紙の歴史を調査する中で、この名前に出会いました。最初はこの村で江戸時代に、何かの毒を作っていたのだろうかと考えました。調べていくと油桐(あぶらぎり)のことだということが分かりました。

この村では江戸時代に年貢として毒荏(桐油)を納めていました。毒荏は油桐の実から搾った油の名前で、この地域ではどこ でも油桐栽培をしていたようです。静岡の瀬名地域の方が言われるのに、虎刈りになった頭髪を「油桐段刈り」と言ったそうです。山の斜面に油桐を栽培し、落 ちた実を止める段を作った。その形に虎刈りの頭髪が似ていたのでしょうか?またこの油を何に使っていたのだろうかという疑問が湧いてきました。

そんな折、平成3年頃SBSテレビから安倍川紙衣(あべかわかみこ)についての問い合わせがありました。安倍川紙衣という名称は初めてで、調べていくと桐油合羽(とうゆかっぱ)という物があり、桐油は油紙に使用していることが分かりました。

江戸時代にたくさん栽培していた油桐が、郷島のどこかにないか探しましたがなかなか見つかりませんでした。たまたま伊豆の井田地区に群生林があることを知り、紙漉同好会の仲間と見に行きました。西伊豆の県道17号線の脇に油桐の林があり群生林の表示がしてありました。そこに落ちていた実を拾って畑に植えましたら芽が出て、10数年で写真のような木に育ちました。

以前、桐油合羽を制作した時に桐油を探しましたが、静岡には何処にもなく、京都の山中油屋さんに中国産の桐油が売られているこ とを知りました。本山妙心寺に子ども坐禅研修会の折、容器を持って買いに行きました。油は容器に漏斗(じょうご)をさし、升で量って売ってくれました。店 の構えといい売り方といい昔ながらのやり方で、京都ならではの風情でした。待たせていたタクシーに戻ると子ども達が「和尚さん遅いじゃん」というから「昔 から油を売るって言うでしょ」と答えたら、子ども達はぽかんとしていました。
その帰りに嵯峨野の笹井提灯屋さんにも寄って、油の塗り方を教えてもらいました。そこで荏の油を桐の油と混ぜて使うことも知りました。

大漢和辞典の荏桐の項に「油桐の異名、その実からしぼる油が荏油ににるから名ずく」とある。
また『大和本草十二雑木』の罌子桐(あぶらぎり)の項には「荏桐とも、油桐とも・・・その実大毒あり、不可食、実に油多し、民用をたすく、・・・。」とあ る。以上のようなことから桐油を毒荏と呼ぶ訳が少し見えてきました。荏の油はエゴマから取り、食用にします。それに対し食べられない油という意味で、毒荏 と称したのかも知れません。では何故この地域から油桐がなくなってしまったのかが疑問になりました。

調査を進めていくと駿河炭(するがずみ)という名前に出会いました。研磨用具に油桐の炭を使用していたのです。江戸時代より徳川幕府に庇護を受けた静岡漆器は、特に研ぎ出し蒔絵が特長であり、その研ぎに油桐の炭を使いました。その炭は駿河炭と言い、下塗り研ぎに小口面の導管が太いので研ぎやすい炭のようです。現在でも駿河炭と称して福井県名田庄村で、この炭が生産されています。

油桐が当地域に見あたらない一つの理由に、油桐は桐油としての利用度合いが薄れていくと、駿河炭の原木として伐採し、徐々に駿河から無くなっていったのではないかと推察されます。

機会を見て自家製の桐油を搾り、灯明や油紙を作ってみたいと思っています。もしかすると石油が途絶えた折りには役立つかも知れませんね。

以上雑駁ではありますが、毒荏についてまとめてみました。安倍川紙衣(桐油合羽)については
又の機会にまとめて報告します。


小物成(こものなり) 江戸時代、田畑から上納する年貢(物成)以外の雑税の総称。
 江戸時代、年貢高・物価を表示した呼称。 銭の異称。『広辞苑より』