私の満州引き揚げ日記

『愛 別 離 苦』私の満州引き揚げ日記     武山恵子

当時私は【旧満州国吉林省鋤蘭県少城子郡上村開拓団】に住んでいました。

■八月十五日、暑い暑い日であった。早めに昼食をすませた私は、二歳半になるクミ子をおんぶして出かけた。本部の団長宅へ立ち寄り、
「奥さん今日は暑いですねえ」
と声をかけた。すると奥さんが飛び出してきて
「あのー、あのねー、日本負けたのよ!、無条件降伏したの!!」
と・・・。
「まさか・・・本当ですか?」
「・・・先ほど天皇陛下がラジオで放送されたの・・・」
「本当?・・・どうしましょう・・・」
天地が崩れ落ちたかの如くワナワナとふるえ、全身の血がひき、立っていられず、その場の材木の上に腰をおとしてしまった。
二人手を取り合ったまま、
「これからどうなるのかしら・・・」
「そうねえ・・・、さっき副団長が緊急役員集合の伝令を出されたから」とのこと・・・。
「内地はどうなっているのかしら・・・、父母や家族は生きているのかしら・・・、団長はじめ、ついこの間出征したばかりの夫や皆様方は・・・、この満州は、この郡上村の明日は・・・。十五日故郷ではお盆なのに・・・」
と、思いは走馬燈の如く駆け巡る・・・。どれほどの時が経ったのであろう、背中のクミ子がなにか感ずるのか
「チャーチャーン、チャーチャーン」と泣き出して、ふと我に返った。
「ごめんね・・・ごめんね・・・」
と立ち上がり、見れば太陽はだいぶ西に傾いている・・・。
「あぁ私行かなくては。あのね・・・、サホーズ部落の千代さんがおととい双子を産んだの。今日はその親子を見に行こうと思って出て来たのだけれど・・・」
行けるかしら、いや行かなくては・・・。あとを頼む、あとを頼むと出征されし御主人よ・・・勝つまでは、勝つまでは、と共に頑張ってきたのに・・・千代さんよ、赤ちゃんよ、可哀想・・・。
 今も空遠く、遠い山にこだまする砲音か爆音か、何処だろう。力なくふらふらと出かけるも、町通れるかしら。小城の町・・・昨日までは日本人だと、朝鮮人にも馬上から声をかけてニコニコ通ったのに、今日は走る・・・。蟻よりも小さくなってそっと通るから、見てくれるなよ、このみじめさ、消え入りたいような私を・・・。早く急いで通り抜けたいと思えども、足重く進まない。
 そんな時、親しい満人夫人が出て来て、優しく肩をたたき
「メンファズなぁー、メンファズなぁー(仕方がない、仕方がない)」
と涙ぐんでなぐさめの声をかけてくれるも、声も出ず、手を取って
「ありがとう」
のみ。
 反面朝鮮系の家々では早くも用意していたのか、独自の旗を立ててヒソヒソと話し合い、冷たいまなざしに消えてしまいたい・・・。引き回される罪人の如く、倒れそうになるのをようやく歯を食いしばって千代さんの部落へ・・・。千代さんにこの事言えるか、いや今日は言えない、お産したばかりだもの・・・。お世話をしてくれているお友達のすみ子さんもなんにも知らない・・・。そっと外へ呼び出して敗戦を告げる。
「まさか・・・ねえ、まさかねえ・・・」
と言ったまま落ちる涙をふきもやらず。
「千代さんが可哀想だから、やっと来たの・・・」
手を取り合ったまま、うん、うん、うん、のみ。今すぐ千代さんには言えないから、それとなく遠まわしに話す事にしようと・・・。今日は
「千代さんどう?」
とやっとそれだけ言えば、千代さん
「ありがとう、私はお蔭様とピンピンして元気だけど武山さん顔色が悪い、元気がない、どうかしたの?無理に来てもらってすまないねえ。明日でもよかったのに」
と言う・・・。赤ちゃん沐浴はすれど、明日は、いやもう洗ってあげる事あるのだろうか、とあわれに思う・・・。千代さんにそれとなく覚悟させておかなくてはと、すみ子さんと二人で話す。
「千代さん今日も遠く聞こえる砲声か爆音かこの辺にもいつ何時落ちるかもしれない、いやそんな日が近いかもしれない、お互いに覚悟していようね」
と言えば、
「メンファーズさー、死ねばもろ共死に恥じをかかんようにしたいと思っているがさー、この子供を残しては死ねないし、どうして一緒に死ねるかと其の事ばかり思っている」
と言う。そうよ私もそればかり心配でいざという時はこの子供とどうして一緒に死ねるかしらねと三人で同じ思いの夕暮れ時、ふと千代さんが
「この子等の名前だけはつけておくれ」
と言う・・・。
「そうねえ、名前ねえ・・・」
いつもなら姓名書等も見て考え考え二三日してから二、三書き出して渡すのなれども・・・それではとちょっと考えて、そうだ今つけてあげねば又逢えるか、逢う日くるか・・・と。
「先に生まれた児を佐喜子、後から生まれた児をちょっと小さいから千佐子では」
と言えば、
「それはいい名だ。すみ子さん忘れんうちに書いておいて」
と言う・・・。
「ではお大事にね」
とすみ子さん。
「たのみます」
と別れて来て、夕暮れの帰り路のトボトボと遠い事遠い事。かくして別れた赤ちゃんには悲しくも二度と逢う日はこなかった。

■八月十八日集結
 昼頃、
「全部落民は本日午後六時までに学校 城南部落に集結せよ。各部落に散在していては危険である」との伝令あり。身の回りの品のみまとめて、(猫のミイコ、犬のチイ公、ごめんねえ、ついて来てはだめよと食べ物を全部与え別れる。可哀想に、ついてこないでと泣き泣き追い返して)急ぎ城南の辻村団長様宅へお世話になる。

■九月七日
 ソ連兵小城に入り、学校に一部の兵が警備の為とて宿泊する。男子は十四・五才以上全員を別室に監禁し、この夜多数の婦女子暴行されたと後日聞く。その夕方近く、学校の近くまで行けば、女子供の泣き叫ぶ声が聞こえるとの事。部落に在りし男子三・四名動揺甚だしくカマ、ナタ等を研ぐ者、僕等決死隊となって学校へ突っ込んで行くとて目は血走り、全身ワナワナふるわせて興奮している。私は「とにかく落ち着いてね、早まらないで下さい、今夜夜が明ければ辻村団長や一同の様子がわかるでしょうから」と願う。折から五部落の家族が、四部落の夫婦が自決したと頻繁に情報が飛び込んでくる。
「どうぞ早まらないで、今夜一晩。死ぬ時は一緒よ。共に死にましょうよ」
と言っている時、急に近辺が騒がしい声に。なんだろう・・・と
「奥さん早く山へ逃げましょう。みんなもう逃げたよ。早く早くよ。土民が小城に集まって押し寄せてくるんだ。ロシア人もいる」
と。早く早く、もう外は薄暗い。近辺にいる人たちを呼び集めて山へ山へ・・・。無我夢中で走って走って走って・・・。真っ暗闇のジャングルのような所に座り込んだ。
「幾人で此処に居るの?」
「離れないようにね」
 女子供のみ三十名、幸いこの中に元兵士の方二名同行、計三十二名。折りしも雨もそぼ降り、ブンブン蚊にはせめられ、子供等真っ暗闇の不安と空腹に泣き出し、みんないよいよ最後かなと手を握り合う・・・。でもがまんよ、がまんよ、死ぬ時はみんな一緒よ・・・と互いにはげます。
 其の時向こうの方、遠方に火が一つチラチラと、人の気配。満人か、日本人か。
「声をかけてみましょうか」
「どうしようか」
思いきって大声で
「山」とさけんだらば「川」と応答。
「日本人だよ、よかったねえ」
「タケヤマ」とさけんだら、「サイトー」との事。
「斉藤医師よ」
「こちらへいらっしゃい。一行三十二名です」
と言えば、
「一家五名、行くよ」
との返事。来られるかしら、湿地じゃないかしらねえ・・・。永い時間灯りはチラチラと見え隠れ。ようやくお子さん、奥さん泣き泣き来られた。ずぶ濡れの様子。
「さぞかし大変でしたでしょう。でも一緒になれてよかったですねえ。よかったよかった」
と闇の中で手を取り合って泣く・・・。誰となく、
「先生死ぬ時はみんな一緒に死にましょうねえ・・・」
「私でも自分はどんなにしても死ねるけれど、子供をどうして、自分の手ではとても殺す事はできないのでそればかり心配で」
と言えば先生が、
「みんな心配ないよ。私が“青酸カリ”を持っているからやるよ。それだけあれば三、四十名は大丈夫だよ」
と。みんな声を出して
「よかった、よかったね。先生ありがとう、ありがとう」
「私がしっかり預かるから最後の時が来るまでがんばろうね。まず夜が明けるのを待ちましょう」
と、しばらくして誰言うとなく
「学校の見える所まで出ようかね」
「みんな手をしっかり取り合って離れないようにね」
と、すべったり転んだり一足一足探り探り、泣く児をなだめなだめ、今に明るくなるからねと・・・ 
「灯りが見えるよ」
「何処の灯りだろう、駅かな」
「此処で夜明けを待とうよ」座り込む。 やがてうっすらと夜明け。
「ああ学校が見えるよ」
「ああ煙も上っているよ」
「みんな生きているのだ」
「大丈夫よ」と口々に喜ぶ。 
其の時満人の声・・・
「オーイ、オデファズライライ、シンパイメイヨー、ライライ」
(おーい、私の家に来い来い、心配ないよー、来い来い)
と幾度も呼んでくれる。運は天にまかせて出て行こうか・・・。
出て見ればなんと同志村の谷口さんの家ではないか。夜暗くなってから只只夢中にて山の奥へ奥へとかき分け入ったので何処に居たのか全然わからなかった。満人等のやさしい言葉によろこび、屋内にて焚き火にあてて貰い、濡れた体を温め、
「ポーミー、メシメシ」(トウモロコシ食べなさい)
に感謝して親子はいただき、子供のおしめを換えたり、昨夜の苦しかった思いを満人に幾度も謝々、謝々と感謝してくつろぐ。
 しかし裏の方にて三・四人の言動不信を満人に感ずる。其の内一人の満人が小城の方面に駆け出して行く。なんだか次第に不安になってきたので、みんなに
「とにかく学校まで行きましょう、早く早く」と急き立て子供をおんぶすれば、満人が
「シンパイメイヨ、芋メシメシ」(心配ないよ、芋食べなさい。)と子供等に与えてくれる。あまりにも親切にしてくれるので尚心配になってきた。
 折も折、遠くからおーい、おーいと呼ぶ声。飛び出て見れば白鉢巻の男性七・八名の方々が手を振って、
「早く降りて来―い。ぐずぐずするなー。みんな早く来いよー。殺されるぞー。」と叫びながら走ってこられる。
 みんな驚き飛び出して、田んぼの中、畑の中、道なき道を団員の方々の処に来たりて見れば、石沢さん、小林さん始め、決死隊を作って救いに来て下さったとの事。皆様方に連れられ夢中で学校に着くその頃、先程まで居た同志村の方へ大勢の満人がかけて行くのが見え隠れしていた・・・。
 昨夜一晩中子供の泣き声が山の方から聞こえてきたので、夜が明けたら助けに行こうということで決死隊をつのり、飛んで行ってみて良かったよとの事。
 学校に着き、皆様方より衣類から履物一切を戴いて取り替え、やっと生きた心地になる。時々、あと五・六分遅れたればどんな事になっていたかという思いがよぎる・・・。皆皆様方に御礼申し上げます、感謝の外ございません。かくして学校にて共同生活に入れて戴き、有難し。
 其の頃、毎日の様にロシア兵・満人におびやかされ、娘さん方は顔にスミをぬり、子供を借りておんぶ又はだっこして、可哀想に子供のおしりをつねって泣かせ、女・子供はひとかたまりになって大声で泣き叫んで其の場、其の場を逃れ、生きた心地なし・・・。辻村団長は、
「つらいだろうが我慢してくれ、早まらないように。死ぬ時はみんな一緒にな。私をおいてゆくな。どうかみんな私に命を預けてくれ。」
と涙ながらに説得して下さる。そしてロシア兵に、満人に、自分の命を賭けて掛け合って下さる。其のお蔭様にて大きな災いもなく過ごさせて戴き、勿体ない親様だとみんなみんな手を合わせ、団長の無事にお怪我無き様にと祈る・・・。

■九月十六日 小城郡上村最後の日
 朝、突然ロシア兵興安隊員大勢にて、今日午前九時までに学校を立ち退けと言われ、みんな驚き夢中で仕度す。自分が持てるだけはよし。子供、病人のある者は布団も持って行けと・・・お蔭様で私は元兵士の稲垣さんが布団・お米等を持って下さり助かり、有難く出発す。
 時々これで小城郡上村の見納めかと、学校よ、診療所、開拓研究所よ、さよなら、本部よ、只々涙々々々・・・。
 重い重い足を引きずりながら駅へ歩く道中、鮮満人の群れ。あわれ、この姿よ。只々うつむいて罪人の如くに駅にて待つこと一時間以上。
 その時、武山大夫、武山大夫・・・と呼んで跳んで来る婦人あり。見れば裏の鮮系婦人、息せき切って手を取りながら
「メンファーズなぁ、メンファーズなぁ...」
と泣き泣き、
「チイダン(卵)、マントー(まんじゅう)持って来たの。クミちゃんにやって」
と下さる。
「勿体無い。有難う、有難う。うれしい。謝々、謝々・・・」
もう再びこの婦人にも逢うことは無いだろう。取り合った手がきつくきつく。泣いて別れた。
 やがてロシア兵に
「ダワイ、ダワイ(はやく歩け)」
と急き立てられ、車中に。
途中三可樹(さんかじゅ)にて車止まる。河原先生の御母堂、満人が窓から大きな重い荷物(大豆、ジャガ芋の袋)を投げ込み飛び込んできて、下敷きになられ、あわれ御病中の御老体ついに永遠のお別れとなり、かなしくも夜更けの0時に河原先生と日置先生、私と三名のみにて、そっと近くの野の陰にて埋葬するに、言葉もいでず、読経もトギレトギレ・・・こんなお別れになるなんて・・・先生、先生と言ったきりたたずむのみ・・・

■九月二十五日 ハルピン着
下車。又もやロシア兵のダワイ、ダワイに追いまくられて、歩く歩く々々。この時、井上夫人急に産気付き、陣痛次第に近く、男の方歩きながら棒きれにて急造タンカを作り、運んで下さる。ポタリポタリ出血。ロシア兵に一歩も止まる事を許されず、ダワイ、ダワイと急き立てられて、ようやく宿舎らしき処まで来た時、お腹を診る。その時ロシア兵
「此処から後の者移動する」
と私より一人前から
「バックバック」
急き立てる。私は急ぎ
「彼の人ベビー生まれる。私バックだめ、他の方々」
と幾度言っても拳銃をつきつけ、只々 
「バックバック」
のみ。いたしかたない・・・井上さん御免なさい。可哀想。元気を出して産んでね。
 なんて負けるという事はこんな無惨な非道な仕打ちをされるのか。涙も出ずロシア兵を睨み返してトボトボとダワイ、ダワイに急き立てられ、足もくたくた。引きずりようやく着いた収容所。
 
■九月二十七日 ハルピン桃山小学校難民収容所
 昨日よりほとんど食わず飲まず、追われおわれでようやく辿り着いた。クミ子よご免ネ。もう泣く声もとぎれとぎれ。可哀想。あの児もこの児もみんなみんな栄養失調の見るも哀れな姿・・・周囲を見れば北方より来たる難民があふれ、あふれ。ようやく私共子供連れのみ座ることが出来たが、横たわる所も無く、みんなみんな座りながらコックリ、コックリ。お友達の持参されし貴重なお水をクミ子に戴き、
「勿体無い。良かったねえ、良かったねえ。ありがとう」
 そんな時、何処か遠くから聞こえてくる
「助けて下さい、助けて下さい。生まれそうなんです。先生、助産婦か看護婦さん・・・お願いします、お願いします。助けて下さい・・・」
と駆け巡っておられる様子。この児も苦しそうなれど、どうしようか。でもあの声は・・・
「すみ子さん頼むネ、この児の事―」
「いいよ、行ってやって」
と言ってくれる・・・
「頼むネ、頼むネ。誰も他に居られぬ様子だから・・・」
と。何処ですかと行ってみれば、玄関先にて男性が多く、右往左往。
「妊婦さんは、産婦さんは何処ですか」
今にも生まれそう。今着いたばかりの方々らしい。男の方々に、
「輪になって体をくっつけて、回れ右!」
と大声にて、人垣を作り、
「そこの御主人か、なんでもよいから衣類を広げてコンクリートの上に」
と・・・
「オギャ―」
間に合った。男の児・・・みんなほっと胸なでおろす・・・
「お母さんよかったネ。元気を出して・・・」
と声をかければ、両手を合わせ
「あり、あり、ありがとう・・・」
と。無事に生まれたこの児。明日はどんな運命が待っているのか。あわれと、母子を思う・・・。冬も間近いハルピンの大空を仰ぎ見る・・・

■十月三日 愛しい我が児との別れ
 コウリャンのおにぎり一日二個戴く。この弱った児に下痢もあるのに、なんとして与えようか。噛んで噛んで少し与えるも、下痢するのみ。外で満人が野菜や色々な物を売っている様子。ほんの少々のこのお金で何が手に入るかしら・・・
 小さなキャベツ一ケ、お味噌小一サジ程分けて貰い、キャベツに味噌を包みクルクルと巻いてかじった、その美味しかった事。クミ子には噛んで口に入れてやる。周囲の方々にもキャベツを少しずつ分け合って・・・食す。
 私に今少しお金があれば、この児にうどんか何か柔らかな物を与えられるのに。悲しいかな、お乳は出ないし・・・ああお湯のみ。ご免なさい、ご免なさい・・・あわれ十時頃ついに永遠の別れとなった。死ぬ時は一緒と此処まで来たのに・・・ご免ね、ご免ね、クミ子よ。
 
■十月五日
 朝、死体を集めに来るから急ぎ連れて外へ出る様との事。致し方なく、すみ子さんと共に泣く泣く子供をだっこして外へ。
 大きなトラックで迎えに来た満人は子供を受取るやいなやトラックの上に放り上げ、ドカンと頭が・・・
「あっ・・・」
と叫んで。可哀想、可哀想・・・抱き合って号泣す・・・。次々と大人も子供も放り上げられて、山となす。その上より二人にて踏み込んで、材木のごとロープで縛り付け、走り去った。なんと悲惨な姿よ。かくもあわれな最期を見るとは・・・敗戦国民のあわれさよ、クミ子よ・・・大勢の人たちも一緒だから共に連れて行って貰ってネ。どうかどうか成仏してネ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、々々・・・お母さんも後からゆくからネ・・・待っていてネ。こんな苦しみの世なれば御仏のみ手にいだかれてネ。幼児たちよ。この収容所にて、五,六才以下の幼児はほとんど九十九%死亡してしまった。毎朝迎えに来るガタガタ、トラックの音は胸を引き裂かれる思い・・・みんな放心状態。愛しい児等はどうなったのか。どこに連れて行かれたのか。もう涙も出ない・・・
 そんな時、北方開拓団の難民の方々が。マータイ(ナンキン米袋)を一枚体につけたのみのあわれな婦人方、頭丸坊主の軍服軍帽の女の娘等。お話をうかがうに、男の方々は目の前で自分達が作った竹槍で刺し殺され、女は衣類を剥ぎ取られて丸裸に。歩いていたらば、土民の方があまりにもあわれと、このマータイ(ナンキン米袋)をくれたとの事―嗚呼、嗚呼―なんたる事か。「みんなで持ち物を出し合って気の毒な方々にと集めて」と。
「国策の開拓団としてこの満州にお国の為ならばと来たのに・・・」
「死にたい、死にたい・・・殺して、殺して・・・」
と床に転げまわる・・・ 慰めの言葉も無く、
「死ぬ時は一緒よ」
のみ・・・生き地獄の有り様・・・辻村団長に、
「私達命を預けたのだから、その日まではみんな早まってはだめよ」
と肩抱き合って、
「うん、うん」
と今日も一日。
 又もや下の方から二階へと助けを求める声。
「先生、助産婦さんー助けてください、お願いします」
と。もう体力も気力も無いけれど、私はまだ生きている。こんな私で出来る事なればと、ヒョロヒョロ鞭打って立ち上がり一階に行って見れば、机・椅子を集めて囲いを作って中に居られる一団五・六名の和服姿の婦人方、所持品も多量。この方等は難民ではないなと思わされる・・・。太った三十才前後の産婦、痛い痛いとわめきちらしている。
「赤ちゃんが出たいと言っているのよ。陣痛だからがんばりましょう」
と言うに、
「こんな痛いのはいや、いや。どうかして」
と・・・あばれて我儘いっぱい。
「赤ちゃんはあなたのお腹にいるの。あなたが産むのがいやなれば、いたし方がない。私は帰ります。産む母子を手助けするのが私の役目。私が産むのではありませんよ」
と立ち上がれば、やっと周囲の婦人方の説得に、
「産みます。産みますからお願いします」
と・・・。我儘婦人も反省した様子なれども、デップリ太った産婦。これは大変だ。長時間かかる。無事に生まれればよいがと、内心祈る気持ち。あれこれ手をつくし、ようやく朝方大きな男児が仮死状態にて生まれ、手を尽くしようやくオギャ―の産声に安堵。力も尽き果て、其の場に倒れ伏す・・・。
 国敗れ、悲惨な難民が幾万と生死の中にさまようているのにかくも我儘な日本人もいると思うとなさけなく、彼の人等に幸いがあるのかと・・・
「衣類もはぎとられ、裸で逃げてきた方々が居られます。どうぞたくさんお持ちの様です、が、恵んであげて下さいね」
と言って帰る。
 
■十月十二日 ハルピン駅を出発
 重い足を引きずり引きずりようやく駅に。ホームにて、私の前をお母さんをおんぶして両手に大きな荷物を引きずりながら歩いている人に、ロシア兵がダワイダワイと急き立て、
「おんぶしたお母さんを下ろしてそばにある溝に捨てろ」
と。ロ満両語に言う。、
「早く捨てろ。死んでいるのは汽車に乗せない」
と言う。
「母は死んでいないから」
と言ってもロシア兵聞かない。私も見かねて
「死んでいないからお願い汽車に乗せて下さい」
と手を合わせてお願いしても、ダワイダワイと急き立て、お母さんをおぶっている帯を銃剣にて切った。ドスン・・・コロコロ・・・・
「アーッ・・」
お母さんは落ちた。と、
「お母さぁ・・・」
と息子さんと二人で叫んだその時、彼の鬼兵、足で蹴飛ばして溝へお母さんを。なんてことを。息子さん手をさし出してお母さんを引き上げんとなさりしに、お母さんはやっと目を開き、指先で息子さんに行け、行け、と。唇にても、早く、早くと息子を急かせ、行け、行け、と。みんなどんどん乗車している。・・・なんて悲しい、悲しい・・・
「ダワイ、ダワイ」
とロシア兵。
「お母さん、お母さん、ご免ね、ご免ね」
私と二人、やっと汽車に。合掌。後ろ髪引かれる思いとはこの事ならん。石炭を運ぶ無蓋車に横の囲いも無く、こぼれ落ちないようにみんな互いに体にしがみつき、汽車はゴトゴト走り出す。彼の息子さん何処に乗られたのか。彼の悲痛な声、涙と彼のお母さんの行け、行け、の指の動き。私の瞼に今も焼きついて消えることは無い。お母さんどうぞ御成仏して下さい。多くの子等もお母さんもと車中にて祈る。お母さん、お母さん、ご免なさい、ご免なさい。手を合わせて。

■十月十三日 新京に着く
 車中十二日夜、駅でない途中汽車が止まる。ロシア兵士、満人が荷物をうばい女、娘を車より引きずり降ろしたり。生きた心地せず、みんな互いにしがみつき、一固まりとなって大声で泣き声をあげるにチェッと地を蹴って通り過ぎた・・・やれやれ。
 私はこの時妊娠八ヵ月、石炭塵にて顔も手足も全身真っ黒。栄養不良と重なってか目を痛め、新京に着いた時にはほとんど失明の如く、歩行にも人様の手を借りなければの状態となる。
 室町学校の公道に夜を送るも悲しいかな、目の痛み日毎にはげしく。この時辻村団長御心配下され、眼科にお連れ下され、ベッドにて手厚い治療、お手当てを戴き、夕刻には痛みも大変快方に。周囲が見えるようになり、手を合わせて団長と先生にお礼申し上げる。

■十月十七日
 西大房身日本航空隊官舎に至り、一棟一号室に落ち着く。八畳に大人十三名ギュウギュウ詰め。でも有難い有り難い。室内にて雨風の心配なし。勿体無い・・・と感謝する。
 目を痛めて辻村団長にお世話になったが、またも日毎に胸苦しさを増し、団長により元満拓病院にお連れ戴き受診するに、胎児も弱まりこのままでは母子ともに良からぬ状態との事。三十日に入院することと相成り、和田ふじ子さん名畑すみ子さんのお世話になり病院に行きしに、国民軍保安隊に病院摂取され、別の室にて受診する。

 新京の仮設病院に着いた日、どこからか「カーチャン、カーチャン・・・」の泣き声が聞こえてきました。みんなが「可哀想に」と話しておられるので「どうしたのですか?」と私が尋ねると、
「あの親子は昨日夕方ここへ連れて来られたの。北満の開拓団から山から山へと逃げてきたそうよ。一ヶ月ほども歩いて歩いて。上が5歳、下が3歳ですって。さぞ大変だったでしょう」
どんなに苦労して来られたことか。その夜、この母子の御主人なる人が尋ねて来られると聞き、良かった、良かったねと言った矢先、突然
「行ってくる、探しに行く!せめて二、三日早く帰ってきてくれたなら・・・ああ、かわいそう、かわいそう・・・ハァ・・・」
と大声で泣きわめき、御主人が
「今から行っても仕方がない。それにどこの山かわからないではないか。可哀想だけどあきらめるより仕方がないではないか。ましてその体で・・・、落ちつけ、落ちつけ」
と大騒ぎ。私もおそばに行き
「おかあさん、おかあさん、やっとせっかくここまで生きてこられたのではありませんか。この二人のお子さんがあんなに心配して泣いておられる。御主人にもお会いできた。元気を出しましょうね」
と、背をなで話しかけましたら
「だから、だから赤を置いてくるのではなかった。主人がいれば赤を置いてきはしなかった。どんなに大変でも這ってきても連れてきたのに・・・」
と、涙、涙・・・。
「おかあさん、私もハルピンに子どもを置いてきたのよ」
と申したれば
「ああ、そう、そうなの」
と、私の顔をしげしげと見ながら
「私はね、三人の子を連れて山を歩くうち、みんなには置いていかれ、だんだん私ら親子だけになってしまった。一人を背中に一人を前に抱いて、上の子の手を引いてころんだり座り込んだり。靴の底は二人とも破れ、足は切れてゴミや木の葉が食い込み、痛いよ痛いよと五歳の子も泣き出し、歩けないと座り込んでしまった。どうしようか・・・、このまま親子で死のうか、水もなく食べ物もなく、雨も降ってきた。もう歩くこともできない。なあ、みんなで母ちゃんと死のうか・・・。その時五歳の子が、『歩くよ、死ぬのはいや、いやー』と大声で泣いた。下の子等も泣き、私も、四人で大声で泣いた。
 しばらくして考えた。三人はとてもおんぶできない、二人なら・・・。でも、でも、どの子を・・・。かわいそうだけど、一番小さい赤を、赤よ、ごめんね、ごめんね・・・。この大きな木の元に坐らせて、何か、何か無いかな。ああ、あった、あった、キャラメル二つだけ。一つは口に一つは手に持たせて、せめて原住民の人たちよ、満人の人たちよ、泣き声が聞こえたらこの子を助けてやって下さい。お願いします。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。
 さあ行こう。せめてこの二人だけは死なせてなるものかと、足の痛さも忘れて後を見ずに走るように歩いた、歩いた。『かあちゃん、赤ちゃんを置いていくの?可哀想だよ』そんならおまえがおんぶしていくか?黙っとれと叱りつけて、泣く泣く来ました」
と、わーっと泣き伏してしまわれた。私も一緒に声をあげて泣いた。ああ、あわれ、あわれ。御主人もこぶしをふるって泣いた、日本よ、これでいいのかと。

 十一月一日夜、陣痛ひっきりなし。先生も看護婦さんも翌朝九時過ぎでないと来られないとの事。この陣痛では朝までには生まれるかもと思い、すみ子さんに灯りを願い、医務室にて必要なる物の準備をと探すも、摂取され機具・機械を全部一まとめに運んだまま、何が何処にあるのやら。激しい陣痛なるに、(生まれぬのは胎児の位置が悪いのかもねえ。頭が出てこないもの)と。
やっと朝十時頃先生来られ、骨盤位にて分娩させて戴くも、泣き声もなく男児とのこと。はかなくも世に出るも、母児の対面もなく逝きし愛児よ。ご免なさい。どうぞ観音様の御手に抱かれて、どうぞ成仏しておくれ。クミ子と共にねと念ずる。坊やご免なさい・・・。亡き坊やはすみ子さんが新京の公園の隅の木の下に葬って下さったとか。すみ子さん有難う有難う。はかなき坊やよ・・・。
 十一月七日満拓仮のこの病院も共産軍に摂取され、入院患者も追い出される。村瀬婦人にお迎え戴き、すみ子さんのお蔭にてようやく大房身に帰る事が出来た。
 室に帰ればみんな発疹チフスにて苦しそうなうめき声。高熱にあえいでおられる。看る人もなし。私も其の中に休ませて戴くに、私も発熱。うわ言幾日も幾日も。南無念彼観音力、南無念彼観音力・・・。
 以後発熱四十二度、起き上がったのが十一月二十日過ぎ。

■十一月十日 発熱頭痛激し
拾った鉄かぶとに雪を詰めてすみ子さんが持参下されタオルを冷やして頭にのせて下さる。なんと有難い、合掌する。ビール瓶に水を持って来て頂き、渇いた喉を少しずつ少しずつ大切に大切に潤わせていただく。この大事な大事な水、うつらうつらしている間に誰かに持ち去られ、泣くにも涙なし。高熱は幾日続いたのだろうか、五日いや七日ほどか。喉の渇きを潤す鉄かぶとの中の水はホコリが混じり、頭を冷やすために茶色く油くさくなった。タオルにひたしチュウチュウと吸って命をつなげたが、もうかぶとには一滴もない。 薬を服用するでもなく、冷やす事もなく、食す事もなく、産後の私高熱でうわ言ばかり言って、周囲の人等は頭にのぼり発狂したのだろうと言っていたとの事。私にも耳に入り、気が狂ったのなれば子供等が二人とも先に死んだのだから応召した主人も戦死したのだろう・・・生き恥をさらすより死にたい。早くと舌を噛んでみたが出血するのみ。外へ出たい。外へ出れば凍死できるだろう。這って出口を探すにどこも鍵がかかっていて開かない。玄関に来てみれば戸の下に五・六センチほどの隙間がある。外の冷気にて真っ白に凍っている。此処に頭をくっつけてみようと狭い玄関の踏み段から逆さのような格好にてようやく其の隙間の凍っている所に頭を置いてみる・・・なんと冷たく気持ちのよいことか。がんがんと痛んでいた頭も次第に軽くなる感じ。そのうち眠くなってきた。有難い、このまま眠りながら死ねるならば有難い有り難いと合掌して、南無念彼観音力とおとなえしなさいと主人の駅に送りし時のお別れの言葉を思い出し、一心に南無念彼観音力ヽヽヽとおとなえしていますに・・・
 やがて眠くなってきて次第に気も遠くなって、広い広い原に一筋の白い道が。と、菩薩方の声か、妙音が高く低く聞こえてくる。汝一心正念にしてこの道を来たれとの二河白道の教えが浮かんできた。これだ、この道だと、南無念彼観音力ヽヽヽと一心に念じ、御仏の御手にすがって、彼のあの声のする所へ行きたいと急げども足は進まずもどかしい。その時、後ろより
「オーイオーイ」
と呼ぶ声。呼ばないで、私急ぐからと、ふいと後ろを振り返れば、胸がドキンドキンと音をたて、あヽ私は生きている。心臓の鼓動かしら・・・でも、かのなんとも云えぬ有難いお経の声。あの妙音を聞きたい。もう一度・・・あヽ聞こえる聞こえる、有難い有り難い大勢の御仏方のお経の声。早くこの道を行こう、急ごう、急ごう。とその時、又もや
「オーイオーイ、オーイ」
と呼ぶ声。誰が呼ぶの?と後ろを振り向けば、トトン、トトンと鼓動。胸が私を打っているのか。手も足も、いや体も感覚は無いがトトン、トトンとだけ。
 私は子供の所へ行きたかったのだ。南無念彼観音力ヽヽヽと一心にとなえとなえ、この道を白道を真っ直ぐに進めば彼の仏方の所にいける。有難いよそ見をしないで急ぎ急ぎ彼の岸まで着きたい。仏の声有難しと急ぐに、又もや一層大きな声で、
「オーイ、オーイ・・・オーイ、オーイ」
あの声は、もしか主人の声では。戦死したのではなかったのか。観音様が私を呼んでいるのかと振り返ったとき・・・
 ドヤドヤとお部屋の方等の声、これを黄泉路帰りと言うのかな・・・。
「武山さん!先生、先生ー。」
「なんだ、こんな所に。冷えて死んでしまうではないか」
とみんなに抱えられてお部屋へ。
 それから何日眠ったのか。みなさんが死んでしまうと思っていたら目がさめた。
「あヽよかったよかった」
と飲み物を下さる。其の美味しかった事。それがなんであったか・・・あヽ私は生きている。お部屋の中広々している。みんな何処へ行ったのかしら。ウツラ、ウツラ眠って、何日か団長様方のおはからいでお食事を戴き、次第に元気を取り戻し、十二月の七・八日頃より起き上がる事が出来た。不思議不思議、奇跡的だ。とみなさん。入り口の名札の上の印の「重の一」は重病で一番に死亡するとの事。入院も薬も不要と病院の先生が診に来られたときの印。大勢の患者にて病室も不足、お薬も不充分にてとの事。
 其の私が生き返り、お部屋の方々や私をお世話下さった方、お見舞いに来て下さった奥様方、多くの方々が私が病床にいる間に死去されたとは何たる事か。
 あヽかすかに夢か現か、思い出した。私は村瀬さんの奥さんを駅で送った事を。窓から手を振って、サヨナラサヨナラと淋しそうなあの顔。遠く遠くまで見えていたあの顔。今もはっきり見えている。私が眠りよりさめ吾に返った頃、十一月の終わり頃かな?と申しますと、
「十一月の二十八日に、やはりこのチフスで休んでおられたが、早朝急に病変、お亡くなりになった」
との事。あんなにお世話になり、お見舞いにも来て頂いたのに。涙が止めどなく流れ出で「奥さんすみません。私が生き返るなんて、反対よ。どうぞ奥さん成仏なさって下さいね。」と合掌・・・南無念彼観音力・・・
 私が高熱に浮かされていた時、隣室の森永さんがそーっと襖を開けて
「武山さん、死んだかな」
と足を握られる。私は足の指を少し動かしてまだ生きていますと合図をする。翌朝もまた翌朝も。ある朝森永さんの奥さんが
「とうちゃん、そんな死んだか、死んだか・・・なんて人聞きの悪いこと言わないで」
と聞こえてくる。
「お前は何にも知らないからそんなこと言うがなぁ・・・、俺はなぁ・・・」
と。次のような事を話された。うれしく、有難うと合掌しながらお隣の声を聞いた。
 実は森永さんは性格も良く、私共の千人余の難民の隊の内、発疹チフスに罹らなかったのは僅か十三人にて、森永さんは其の一人とか。其の方等が食事、病人、警護、暖房、死者運び等など隊員全部のお世話をして下さった。毎日毎日多くの死者が出て、この死者を遠くの緑苑の墓地に送って下さる人がなくて、森永さん只一人が其の任にあたって下さった由。毎日零下三十度以下の雪の中、ソリに二・三人以上も乗せ、午前中一回午後一回運んでくださった由。午後五時以降は外出禁止にて、本当に元気な方でないととても遠き緑苑までの往復は大変だったろうと思う。森永さんの言葉は次に、
「緑苑ではなぁー、俺が死体を運んで行くのを近くで見え隠れして満人が待っていて、俺が帰ると其の仏の衣類を剥ぎ取って行く。其の後は野犬がパッと集まって来て食いちぎる、其の後にはカラスが無数に集まって来て、やがて白骨となってしまっているのだ。朝行って見て、無残な有り様に目を覆いたくなるよ。一つの穴に五・六体転がし込むのさ。」「一つの穴に一人ずつ入れるのではないの」
と奥さん。
「バカ、そんなことしたら穴は何万、いや何十万あったって足りないのさ。だからなぁ、武山さんを朝一番下に入れてやれば野犬にも喰われぬだろうし、翌朝までには凍ってしまい、来春になって土をかける時までは大丈夫だろう。あんな無残な姿にしたくないと思うからだよ」と、なんと有り難い。満州では地下三メートルいや五・六メートルまで凍るので、土をかけるのは翌春五月頃との事・・・。
 ああ、多くの亡くなられし方々よ。広野の墓穴に眠られし、いや凍結されし吾が友、あの方この方よ、さぞかし寒かろう。涙も凍る夜半に御国の為とのみはるばる満州の地に祖国を後にした開拓民のこの有り様を、雁よ、心あらば伝えてよ。

■十二月師走の二十六日
 お陰様と元気になった私。無一文の私。どうして暮れ、正月を迎えるのでしょう。友のすみ子さんとトーフ売りでもしようかと辻村団長にお願いして金五十銭也をお借りして、はるか彼方の満人のトーフ屋に仕入れに行き、二人で箱を吊り下げて遠い道をトボトボようやく帰り来たった。
「この棟に入りましょうか」
「何と言って入るの」
「ねえ、何と言うか」
「トーフはいかがでしょうか・・・」
と、ドアを開けたその時
「お母ちゃん、お母さん」
「寒いよ、寒いよー」
「なんか喰いたいよー」
「お母さぁーん」
と、私等女が入っていったのでお母さんと見えたのでしょう。
「あなた方、義勇隊員でしょう。隊長は?先生は?」
と尋ねるに、
「何処かへ行ってしまったよ」
と。哀れ、夜具も無く、ヤブレ新聞やコモを掛けている者は良い方、寒い寒いとブルブルふるえ、暖房も無く、もう死亡している者、手も足も凍傷にて動かぬ者。口だけで声もほとんど出ずに、お母ちゃんお母ちゃんと泣いている。なんと悲惨な有り様・・・
「すみ子さん、トーフ少しずつ口に入れてあげようか」
「そうしよう」
と、順にお口に入れてあげれば、
「母ちゃん美味いよー、お母ちゃん」
何とかしてあげたい、いや何とか出来ぬのか、この哀れな少年等を・・・
可哀想なれど、ご免なさいと後にせしが、ああ、邦人避難民は皆、今、生死の境をさまようている。私たちに明日があるのか。彼の義勇隊の青少年等よ、只々・・・
一筋にお国の為にとのみ北満の地に来たのに、だのに彼の哀れなる姿、悲惨なる有り様を助けるすべもなく、救うすべもなきとは・・・
 翌日、二度トーフを仕入れて、
「今日は他の棟に行ってみましょう」
「お邪魔します」
と、開ければ、なんと昨日と同じような少年隊の室
「お母さんだ!」
の哀れな声。
 「何か喰いたいよー」
とてもトーフを売るなど出来ないねえ。口に入れてあげようね。冷たいからご免ね。みんなツバメの子のように口をあけて待っている。流れる涙もトーフと一緒に。寒いでしょう。腹がへって可哀想。ご免ね、ご免ね・・・とても長居は出来ない。二人で抱き合って泣いた。これが、これが戦争に負けたという事ね。
「もう帰りましょう。この小さい半丁ほど残ったトーフ、二人で分けて食べましょうか」半分にしてお部屋に持ち帰り、お部屋の皆さんにも少々なれどお分けして食す。辻村団長に義勇軍少年隊の二日間の事をお話し、顧みる。団長には、借用金は私が病院に勤めて報酬が戴けるようになれば必ずお返しいたしますからと、お詫びとお願いをして・・・
 大晦日も団長様方のお陰にてお餅小二切れ、コンニャク小二切れ、コウリャンのおにぎり等配給を戴き、勿体無い何一つお手伝いも出来ませんのにと、合掌して戴く。有り難い、有り難い・・・

■昭和二十一年一月二日
 昨十二月二日に、団長様方の御骨折りにて難民病院開設され、兼ねてより私も元気なればぜひ勤めたいと願書を提出いたして居りました。ようやく勤められるかなと思われるようになりましたので二日より勤務する事に致しましたが、まだ耳も良く聞こえず、字も忘却して書けない状態なれども、先生も看護婦も皆チフスにて倒れ、少人数にて大勢の患者。昼夜を分かたず、外科も内科も先生お一人にての御努力でした。この時ほど私は看護婦の資格を持っていて良かったと思った事はありません。少しでも人様のお役に立つ事が出来る。不思議と私は、命を再び戴いたのだから、病める同胞のためにこの身を捧げ介護しよう、これが私に与えられた使命と感謝し、有難く勤め励む日々でした。そんな二月初めの或る日、久しぶりに病院の裏に出てみるに、身も凍えそうな寒さの中、七・八才ぐらいの女の児がブルブルふるえながら箱を首から下げて立っているので
「何?ああ、お饅頭を売っているの・・・売れたかね?」
と顔を見れば、
「ミヤ子ちゃんじゃない。お母さんは?」
と尋ねるに、
「死んだの・・・」
「お姉ちゃんは?」
「寝ているの」
「そう、可哀想に」
と箱の中を見るに、まだ一つも売れていない様子。買ってあげたいが私もお金がない。しかし、
「ミヤ子ちゃんちょっと待っていてね」
と炊事場のおじさんにミヤ子ちゃんの様子をお話し、お金をお借りして饅頭を全部買い、「四つだけ私貰うからね、早く帰ってお姉ちゃんにもあげてあなたも食べなさい。寒いから早く帰りなさい」 
と言えば、
「ありがとう」
と言うなり泣き出した。
「ミヤ子ちゃん風邪を引くと困るから、泣かないでお姉ちゃんと早く食べなさいね・・・これは私おじさんと一緒に食べるからね、元気でねと別れる。
「ありがとう、さようなら・・・」
この凍りつく道に立って今日もミヤ子ちゃんはお饅頭箱を首にかけて。可哀想に。ミヤ子ちゃんのお蔭で私もお饅頭が食べられるのよ。ありがとう、風邪を引かないでねと。
 それから後、五月の或る日、ミヤ子ちゃんがノビルを買ってと持って来る。おじさんに炊事場で使ってもらうようにお願いして買う。
「何処でこんなにたくさん取ってきたの・・・」
「あのー緑苑という所に行くと、土がお饅頭のようになっている所にいっぱい出ているの。」
この子は何にも知らずに取って来ているが、彼の緑苑の土饅頭から取って来るとは・・・お母さんの墓所かも。いやお母さんがこの子をノビルとなりて養っているのではと、ふと思ったとき、止めどなく涙が溢れ出、良かったねえと抱きしめて、元気で生きようねと。 そんな時病院ではロシア兵が来て、使役と称して医師、看護婦、看護兵を出せと迫り、外科部長先生、看護婦5名、兵3名を連れて北満に立たれ、みんなオイオイ泣いてお送りした。どうぞ御無事にお帰り出来ます様と合掌して・・・
 院内にては毎日毎日治療及ばず他界され、中でも少年義勇隊の若き子等の凍傷の手足の切断手術の悲惨さ。麻酔薬もなく、只々ヨ―チンをかけ、軍医殿がさあ笑え笑えと言いながらの手術。
「痛い、殺せ、殺してくれ」  
と叫び暴れるのを看護兵、看護婦涙と汗で押さえる。彼の両足を無くした彼の子は、どうしているかしら。先生の回診の度に、あの時殺して欲しかったと泣いていたあの子の顔が瞼から消えない・・・
 6月中頃、ソ連軍・共産軍・国民軍が三つ巴になりて新京にて戦い、落下傘部隊も舞い降りて白兵戦となり、倒れし兵数多く、夜となり病院へ逃げ込んで来たる兵、なんと満服を着ておられるが全部日本人。捕虜となった兵の方々が弾除けに最前線に出されたのでしょう。撃たれたふりをして夜になって病院へ逃げ込んできたと言う。元気な方も居られたが、全員負傷者として顔や手足にヨーチン・赤チンなどを大げさに塗り、ぐるぐる包帯をして、ベッド・廊下・押入れに寝かし、翌朝来た検視兵の目をごまかし、やれやれと胸をなでおろした。
七月八日、引き上げ南下の為、急に病院閉鎖となり、一時新京市内にて胡芦島(ころとう)行きの連車を待つ事となりました。

■七月十三日
又新京にて列車待ちの間の出来事です。胡芦島に出発日二十日という時に・・・パーロ軍(共産軍)司令部より、長官が入院中なので若い看護婦を一名至急病院へ派遣してくれるようにとの要請あり。シライ医療団長それではと、陸看のヤマグチ看護婦を送りますと返事された由にて、矢の催促にて致し方なく、ヤマグチ看護婦を出すこととなる。私はシライ先生に
「本人承諾の上ですか」
と尋ねるに、
「いや」
と申される。
「そんな無責任な。南下の日も近いというのに、二・三日で帰してくれますか」
「いやそれまでには何とかなるだろう」
と、無責任も甚だしい。十五日、十六日
「先生、若い看護婦を一人敵の手に渡して平気ですか。どうなさるおつもりですか」
「それではもう一人看護婦を出し、二人なれば大丈夫だろう」
とセリザワ看護婦を出されたと。私は病院に電話して看護兵に
「二十日は出発することになっているので十八日までには帰してくれるように」
とお願いしておくも、その日の夕方になっても帰ってこない。午後六時以降は外出禁止令が出されている。十九日、
「シライ先生どうして下さいますか。先生迎えに行ってください。先生の責任です。」
「わしも心配しているんだよ」
と。
「先生、先生の娘さんだったらどうなさいますか。明日このまま残して帰られますか」
しばらくして、
「婦長、困ったなー」
「困ったなーではすみません。時間が無いです。私迎えに行きます。急ぎ車を出してください。
時に四時半。車をとばし病院に着いてみれば二人で夕食のお世話をしており、患者さんの様子はと尋ねるにお熱も無く、時折咳が出たり出なかったり、と。私は司令官にお目にかかり、看護婦を帰してくださらないと明日の出発に間に合わないこと、看護婦の代わりは明朝白井先生が責任を持って出して下さる事、看護兵の通訳でお願いするも、代わりは来るか来るかとそれのみ。もう時間は六時近い。
「グズグズしてはいられない。(看護婦)セリザワさんは車の中に伏せて乗って、ヤマグチさんは食後のお薬をあげたら流し場へ行くような顔をして車に飛び乗りなさい。急いで。私は車の蔭に隠れていて貴女が乗ったら私も乗るから」
と耳打ちをしておく。その後は只々夢中「カイ、カイデー(早く早く)」と運転士を急がせ急がせ、(三馬路)ふと後方を振り返るに、看護兵が大慌ての様子。後ろを追いかけられては大変。
「運転手さんお願い、六時半過ぎて夜警兵に見つからないように」
と、一心に観音様を念じ、念じて七時近く帰着。三人は抱き合って泣いた。泣いた、泣いた。
「先生後は責任を取って下さい。私は命がけで連れてきましたから。明朝看護婦を先生が送るといって逃げてきましたからね」
と。お蔭様で全員無事に、南下列車にと集合しました。そのとき孤児等を十名ほど連れて来た。自称開拓団の医者をしていたという五十才ぐらいの男の方が私の所へ来て、
「この孤児たちを連れて帰ることになった。が、私も自分の子供が三人もあり、面倒を見きれないので、医務班の武山さんなれば、責任を持って連れて行って戴けると思ってお願いに来たのだが」
と言われるので、
「医務班の長は、あそこにお出でになる**先生だから、お願いしたら」
と申しましたれば、
「まさか・・三才ぐらいの小さい児も居るし、その子が今下痢をしているので先生にはお願いできない。どうかあなたを見込んでお願いする。頼む。頼む」
と言われ、**先生にも相談いたし、それではと引き受けることにしたが、下痢をしているのでは、「オシメ、着替えの用意有りますか」と尋ねれば、何も無いと言う。
「とても引き受けられない」
と申しましたれば、
「急ぎ準備をする。この児らの持ち帰れる金額は預かっているので、これを貴方に渡すから、よろしく頼む」
とお金を渡される。出発の時間も迫り、ようやく着替えやらオシメを持ってきて、頼む、頼むと言われ、私も我が子を二人ともなくし、この児等は父母を無くした哀れな児等。私に出来得る限りの愛情を持ってこの児等とともに内地に帰る事としようと決心する。

■七月二十日
午後一時頃、ようやく車上の人となり、色々ありましたが、全員無事にこの列車に乗ることができました。昨秋のハルピンより、新京への無蓋車での恐ろしさをみんなが思い出し、この列車は有り難い有り難いと、口々に感謝でいっぱい。やがて夜半、胡芦島に着き、其の夜は先生をはじめ医務班他の者もみな軒下の土の上に夜具をのべ星の下に。昨年九月、山の中に野宿した時を思い浮かべ、今夜は静かな安らぎを。難民にも、こんな夜があるのかと。ホホを流れる涙に、野宿の土の上なるも忘れて星の瞬きをじっと見つめ故郷で眺めた星も同じだなと・・・一夜を明かしました。
 此処胡芦島にては、米軍による難民救済病院が開設されておりました。なんと有難い事と感謝しておりましたその時、米医務院の方より、病院の患者多く勤務者が不足ゆえ勤務してくれないかと依頼され、先生はじめ医務班全員勤めることと致しました。

■七月二十二日
 病院と申しましても元日本人官舎住宅の仮設ではありますが、医療器具も薬品も十二分にて手厚い治療状態に只々感服致し、感謝の他ありません。しかし此処にてはコレラ患者続発しまして大人の死亡者多く、父母を無くした孤児等の哀れさ。みんなあんなに夢見た内地故国日本へ帰れる日も近いというのに。いかに良薬の治療も、疲労しきった難民には功を奏せず。幼児に思いを残し、頼む頼むと手を合わせながら悲しいお別れを幾度か重ねて、もう泣く涙もかれて、今日もねえと語らいながら月日を過ごしました。

■九月十五日
 慰問班が来られ、先生・看護婦の手の空いている者、患者さんの歩ける方等集まりて、ひとときを過ごすことになりました。踊り・歌等数々。その内に彼の唄『花摘む野辺に陽は落ちて』の唄。みんなで肩を組みながら・・・との声に、誰彼と無く肩組んで『誰か故郷を思わざ〜る』『誰か故郷を思わざ〜る』『誰か故郷を・・・』、オイオイ泣きながら歌いしに米軍兵も一緒に肩組み、先生も患者も看護婦も組みし肩をしっかり抱き合って、溢れる涙を払いもせず
「みんな、みんな、共に内地へ、故郷へ帰ろう」
と泣き伏せば米兵の方々
「もうじきに帰れるよ」
と肩を叩いて慰めて下さる。そのやさしさ、感謝。手を合わせて拝む。

■十月十六日
 私等にも引き揚げの日となりました。米軍の医務院の皆様に心からの感謝のお別れを述べますに、軍医上官はじめ皆々様方整列され、永い間御苦労様と一人ひとりに握手し、サンキューサンキューと心から見送って下さいました。かえって勿体無く有難く、涙でのお別れ。
 
■十月十六日 胡芦島条約
  いよいよ引き揚げ船に乗船するに至り、正しい氏名・職業・日本での住所を記入して提出するようにとの達しがありました。すると其処此処から
「ヤレヤレやっと本来の自分に戻れるか」
と言う声が聞こえてきました。私にはそれがどういう事かわかりませんので先生にお尋ねしましたれば、殆どの人が拉致されるのを恐れて職業・名前を替え、仮の職業・仮の夫婦、又親子とし、特に元官吏だった人等は皆地に潜り、髪形・服装を替えて胡芦島まで来たのだそうです。これを誰言うとなく、胡芦島条約と言ったのだそうです。新京にてロシア兵に、パーロ兵に拉致されて行かれた先生・看護婦さん方、どうぞ無事に帰国出来ますようにと、祈り病院前にてみんなで
「ツバメよ心があるなれば 内地にこの胸伝えてよ」
と泣いて唄ったあの日、思い出しました。尚私共医務班を特別にジープにて胡芦島の港の乗船場まで送り、船の出るまで見送って下され、お別れしがたい思いに涙で達春丸船上の人となりました。内地に向かうのだと思いますと、嬉しさに胸が熱くなり、甲板にて手を合わせ、
『広野よさようなら、愛児よごめんね、お母さんだけ帰ることになって、あの多くの方々よ友よ、再び来る事もあるまい、赤い夕日よ、いまだ残っておられる同朋が一日でも早く無事に帰国できますように・・・』
とみんなで泣いた、泣いた。泣いた。夕日もぼんやり・・・。大海原の波にすべてを飲み込まれたか如く、只々ぼうぜんと西を見、東を見、感無量の思いに立ち尽くしました。
  航海中も、毎日の如く先立たれる人多く、船中にても丁重なる水葬を行って下され、弔笛音ながく胸が痛くなる思いなれど、日が重なるにつれ葬具も底をつき、次第に簡素となりました。長崎の港近くになり皆甲板に出、日本が山が見えて来たと手をたたいて喜んでおりました。その折もおり、疑似コレラ患者が出たので入港できない。全員検査を済ました後、一週間又は二週間後の上陸との事。ここまで来たのにと落胆。長崎の沖に停泊している間にも死者は続出し、内地のそばまで来たのに
「早く上陸させてくれ、わしは日本の土になりたい」
と、手を合わせながら帰らぬ人となられし方々、今も瞼に焼き付いております。
 ようやく上陸。その喜びは筆舌に尽くせません。泣きながら合掌して上陸し、小道に出ました所に愛国婦人のタスキを掛けた方々が
「御苦労様」
「御苦労様」・・・
とサツマ芋のホカホカを一人ひとりに下さいました。
「まあこれ下さるのですか。勿体無い、有難うございます、有難うございます・・・」
と、誰も彼も押し戴き、とてもすぐには食べられません。勿体無くて懐に入れ、両手でしっかり押さえ、なんと内地は有難い。かくも温かい情があふれている。共に感謝と喜びの涙を流しながら。
 収容所へ入り受付に書類を提出し、孤児等も無事に係りの方々にお願いし、サヨナラをしている所へ・・・新京にて孤児を頼むと言われし彼の氏、飛んで来て
「孤児を有難う。あの時渡した孤児人数のレシート代金は」
と申されるので、
「御心配なく。先生と二人で孤児の名簿と共に係りの方にお渡ししましたから」
と申しますと、
「チェッ残念遅かったか・・・あれは私の金だったのに」
と。
「なんですか貴方は。お金を持ち帰りたいために孤児の名を使ったのですか。下痢をしていた恵子ちゃん、船の中であんなに困ってお洗濯していたのに一度だって見に来なかったではありませんか。哀れな孤児をだしにお金を持ち帰ろうなんて、なんて浅ましい心なんでしょう。そんな日本人がいるから負けたのよ。可哀想な孤児にほどこしたと喜びなさいよ」
と浴びせ掛けて、色々な人を見て来たと言い様のないわびしさと言うか悲しさと言うか、先生とも話し合い、それも負戦の姿かな・・・と。
 私は奇跡的に命ながらえ、今内地日本に帰る事が出来た。あの多くの犠牲となられた方々、哀れな幼児等の供養をさせていただかなくては、申し訳ないと念願し、その後ようやく三十年を経て、念願叶い、拙寺の庭に観世音菩薩像を建立させていただく事が出来ました。有難さ一杯です。いかに五十年経とうが百年経とうが、私の生ある限り瞼に走馬燈の如く浮かぶ、あの数々の悲惨な様は、消える事はありません。
 もう再度戦争はしてはならない。日本を愛し、国の為ならば死をも恐れず命を捧げて愛国の精神一筋に尽くしてきたのに何たることか。すべてを信じてきたのに、ああ・・ああ。国民はもとより近隣の多くの民族が犠牲となられた事か。戦争は決してしてはならないと私は訴えたい。
 南無大悲観世音菩薩・・・合掌

 悲 母 臍 塚 観 世 音 菩 薩

悲母臍塚観世音菩薩1 悲母臍塚観世音菩薩2 悲母臍塚観世音菩薩3


    悲母臍塚観世音菩薩建立に寄せて
 
かの悲惨な第二次世界大戦においてたくさんの人々が戦火の犠牲となられました。国のために開拓団から義勇兵となって散っていった少年達におもいを馳せるとき胸は張り裂けんばかりです。いたいけな赤子、幼児を含め、犠牲となった多くの御霊は数知れません。そして、これから成長していく子供達に二度とこのようなことがあってはならないのです。
 観世音菩薩は、衆生のために大慈大悲の手を垂れて一切の苦悩から人間を救い、また死者の霊を救ってくださいます。その南無臍塚観音菩薩が、ここにお姿を現されました。
 私たちが、母の胎内にある時、命の絆は「臍帯」にあります。この臍帯を観音菩薩の御許に託し、深く仏縁を結びましょう。愛児が無事息災に成長し、世の為人の為に尽くし平和な世界と幸福な人生を築く事を祈念しましょう。そうすれば、必ず御加護があるでしょう。
 朝な夕な常に観音菩薩を念ずれば苦しみ障りも除かれて、無量の福徳が集まり来たります。
   南無大慈大悲の観世音菩薩。
           昭和50年4月  武山宗恵

武山恵子(けい)
 大正二年十二月二十四日
   岐阜県郡上郡八幡町五町にて、父小保木長六、母みねの長女 として生まれる。
 昭和六年  お国のためになれる勉学をと東京に出る。
 昭和十一年 苦学の末、看護・助産婦学校を卒業。
 昭和十四年 満州開拓郡上村開拓団に入団、保健・助産に従事。
 昭和十八年 武山志元と結婚。長女久美子誕生するも引き揚げの途中二歳で死亡、男児死産。
 昭和二十一年十一月 長崎に引き揚げ。
 昭和二十二年四月  シベリアに抑留されていた夫志元が帰国。
 昭和二十二年七月  
   志元、秘在寺に一足先に入寺。その後本人も秘在寺に入り、長男・次男誕生。
 昭和二十六年三月  夫志元、不慮の事故により死亡。長男二歳半、次男は生後十一ヶ月であった。その後は助産婦・看護婦をしながら寺を守り二子を育て上げる。
 昭和五十年    念願かなって「悲母臍塚観音」を境内に建立。
 昭和五十一年四月 次男清堂秘在寺住職となる。以後は御詠歌一筋に今に到る