永年の宿願叶う 郷島村前堤防、全長1キロ数百㍍がこの春完成しました。国・県・市・町、多くの方々の永年に渡るご尽力のお陰と、心より感謝お礼申しあげます。 郷島の水田と水害の記録 『賤機村誌』大正元年の記録より 明和6年(1769)秋、安倍川通り水害、堤防破損し中新田を流出する。 天明7年(1787)6月20日、安倍川及び谷川洪水、堤防乗り越え田畑全部流失。 文化13年(1816)8月4日、安倍川通り流出被害。 文政11年(1828)6月、安倍川通り、谷川通り全部流失する。 天保7・8年(1836~37)、安倍川通り築堤竣工、田畑の開墾成功する。 弘化2年(1845)8月、安倍川通り流失する。 安政4年(1857)安倍川通り流失する。 明治2年(1869)安倍川通り田畑全部流失する。 明治4年(1871)安倍川通り堤防26間半流失する。 明治9年(1876)安倍川通り田地流失する。 明治23年(1890)安倍川通り谷川通り田地流失被害。 明治26年(1893)安倍川通り田地全部流失被害。 明治37年(1904)7月、安倍川通り田地全部流失被害。安倍街道213間と浅間橋流失、龍西橋120間落橋、建物5棟流失、婦人1名死亡。 明治以降も複数回被害に遭いました。 上記のように、郷島の堤防は過去何回も決壊し、その都度田畑は流され石と砂利の川原となり、町民は開墾を繰り返しながら水田を守り続けて来ました。 写真の前方が川上で突き当たりの山の左方面が安倍川の支流の中河内川、右方面が安倍川です。安倍川の河口は駿河湾で、水源は赤石山脈(南アルプス)。全長52キロメートルの一級河川です。 ここ郷島は河口から20キロ、冬場はほとんど水がありませんが、夏場の台風の時などは100メートルの川幅全面に濁流が流れてきます。前方の俵沢で安倍川と中河内川がぶつかり合って合流し、勢いを増した濁流が郷島に流れ下ってきます。俵沢より上流の左右どちら方面に雨が多く降ったかによって川の流れが変わり、ぶつかる場所の違いによって被害が生じたのではないかと思われます。秘在寺寺子屋又漘舎(ゆうしんしゃ)の名前の由来(川が合流したみぎわ)もここから来ているのではないかと推測します。 |